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【F1動画】2007年ルイス・ハミルトン デビューイヤー

2007年、ルイス・ハミルトンは、ロン・デニスが率いるボーダフォン・マクラーレン・メルセデスからF1にデビュー。チームメイトは2005年・2006年のチャンピオン、フェルナンド・アロンソ。F1史上初のF1黒人ドライバーとなったハミルトンは「マクラーレンの秘蔵っ子」として注目を浴びた。

ハミルトンは、デビュー戦となった2007年開幕戦オーストラリアGPでいきなり3位に入賞、表彰台へ。第2戦マレーシアGP、第3戦バーレーンGPでも2位に入り、この時点でデビューを含め3戦連続表彰台というF1GP史上初の快挙を果たす。

⇒【F1動画】2007年ルイス・ハミルトン デビューイヤー

続く第4戦スペインGP、第5戦モナコGPでも続けて2位に入賞。未勝利ながらドライバーズランキングでトップに躍り出る。

第6戦カナダGPでは初のポールポジションを獲得、初優勝。続く第7戦アメリカGPでもポールトゥウィンで2戦連続で優勝。その後の第8戦フランスGP、第9戦イギリスGPでも3位となり着実にドライバーズポイントを積んでいく。


しかし、第10戦ヨーロッパGP予選で、ハミルトンはF1デビュー以来初のクラッシュ。結果、9位フィニッシュとなり連続表彰台記録および連続入賞記録は9でストップした。

第16戦日本GPでは、タイヤのトラブルから初リタイア。ドライバーズポイントランキング1位のまま第17戦ブラジルGPへ。ブラジルでは、チャンピオンを争うキミ・ライコネンとフェルナンド・アロンソの前、2番グリッドからスタートするも、両者にかわされた後はミスやギアトラブルにより後退。

結局ハミルトンは7位に終わり、ライコネンにタイトルを奪われるも、世界中がハミルトンの実力を認めることとなった。

【F1動画】中嶋一貴が紹介する富士スピードウェイ

近年では2007年、2008年にF1日本グランプリが開催された富士スピードウェイ。その富士スピードウェイを当時のウィリアムズF1レギュラー・ドライバー中嶋一貴が紹介する。

⇒【F1動画】中嶋一貴が紹介する富士スピードウェイ
Presentazione del GP Giappone - circuito Fuji Speedway

さて、富士スピードウェイを検索すると、現在(2011年7月時点)では、Youtube上にはコース紹介のオフィシャルビデオすら存在していない。事故、雨、不自由なアクセス、めったに見えない富士山…。逆に、こういったマイナスイメージの動画が目立つほどだ。

富士スピードウェイは、昭和50年代には地元からも見放され、先年、TOYOTAがF1を撤退するに至ってはほとんど話題にあがらないサーキットではあるが、日本を代表する国際格式コースのひとつとして更なる飛躍を期待したい。

【F1動画】2007年ブラジルGP 中嶋一貴ピットストップ・アクシデント

2006年11月8日、ウィリアムズF1は、2007年シーズンのテストドライバーとして中嶋一貴との契約を発表。これにより、2007年シーズン、中嶋一貴はGP2を戦いながらウィリアムズチームのサードドライバーとなった。

この件については、2007年からウィリアムズF1のエンジンサプライヤーとなったトヨタの推薦があったとされ、チームオーナーであるフランク・ウィリアムズが自ら面接を行い決定した。中嶋一貴のドライバーとしての能力はもちろん、英語が堪能であることも判断材料になったようだ。

2007年。中嶋一貴は、F1の開催日程がGP2と重ならないレースでは、サードドライバーとして金曜のフリー走行に出走。F1とGP2が併催されるレースではリザーブドライバーとして登録された。

その後、中嶋一貴は、アレクサンダー・ヴルツの中国GP限りでの引退発表により、最終戦ブラジルGPでF1デビューを果たす。アジア初、親子2代のF1ドライバーが誕生した。

⇒【F1動画】2007年ブラジルGP 中嶋一貴ピットストップ・アクシデント
First ever pit-stop of Kazuki Nakajima-F1 2007

F1デビュー戦となった2007年ブラジルGPでは、予選19位。決勝では、1回目のピット・イン時に、ブレーキングのミスによって自らのチームのピットクルーに接触するという失態を演じたものの、日本人最上位の10位で完走。レース中のファステストラップでは5番手のタイムをたたき出し、チームメイトのニコ・ロズベルグを上回った。

【F1動画】1999年イギリスGP MSCの試練

1999年、ミハエル・シューマッハはフェラーリに移籍して4年目。名門復活を託されていたシューマッハは、前年と同じくミカ・ハッキネンとのチャンピオン争いの中にいた。第7戦までのポイントランキングでは、ハッキネンに8ポイント差をつけられ2位。

そして、第8戦イギリスグランプリ。シルバーストーン・サーキット。2番手からスタートしたシューマッハは、マクラーレンのデビッド・クルサードと、チームメイトのエディー・アーバインに抜かれてしまう。
その時、スタートすることができなかった後方の2台のマシンを撤去するために赤旗が出された。しかしなぜかシューマッハとアーバインはサイド・バイ・サイドでマゴッツ、ベケッツ、チャペルを通過し、ハンガー・ストレートでもまだ3位を争っていた。
インにシューマッハ、アウトにアーバインという状態でストウ・コーナーに入っていくのかと思われた矢先、シューマッハはコースアウトし、ほぼ直進のままタイヤバリアにクラッシュ。

⇒【F1動画】1999年イギリスGP MSCの試練

レース後の発表によると、シューマッハは右足を骨折。チームはクラッシュの原因を「リアブレーキの破損」とした。
アーバインとサイドバイサイドで争っていた時、シューマッハは無線で「アーバインをパスするから、道を開けてくれ」と言っている。チームは赤旗が出されたことを彼に報告するべきだった。
赤旗を知っていれば、たとえブレーキトラブルからクラッシュにつながったとしても、大けがを負わなくて済んだ可能性もあるのだ。

6戦欠場した後、シューマッハは第15戦マレーシアGPから戦列に復帰し、ドライバーズタイトルを争っていたアーバインをサポート。最終戦日本GPでもポールポジションを獲得し、決勝では2位入賞。フェラーリに1983年以来のコンストラクターズチャンピオンをもたらした。

【F1動画】1982年F1グランプリ ケケ・ロズベルグわずか1勝でチャンプ

1982年はF1史上最も荒れた年のひとつであった。コンストラクターズタイトルはフェラーリが獲得したものの、ジル・ヴィルヌーブの死、シーズン途中で引退したディディエ・ピローニの重傷という悲劇を生み、この年のフェラーリは血塗られた赤い年となった。

1982年のF1ドライバーズタイトルは、誰がピローニのポイントを上回るかということに注目が集まったが、マクラーレン・フォードのジョン・ワトソンとニキ・ラウダ、ルノーのアラン・プロストらは2勝するもリタイヤが多く波に乗れない。

トップチームのウィリアムズに移籍した若手のケケ・ロズベルグはこの年、一気にチャンピオン争いに加わる。第14戦スイスGPでプロストとラウダを抑えてやっと1勝を上げ、ポイント争いで首位に立つ。続くイタリアGPではプロストとラウダが脱落し、ワトソンだけにチャンスが残る。最終戦アメリカGPで、ワトソンは優勝を目指すが、ロズベルグも入賞して1982年F1チャンピオンを決めた。

⇒【F1動画】1982年F1グランプリ ケケ・ロズベルグ1勝でチャンプ

優勝ドライバー数11人、表彰台に上がったドライバー数18人、入賞したドライバー数29人と、後にも先にもこれ以上の波乱の年はない。ロズベルグがたった1勝でチャンピオンになったことからも、この年がとれだけ混戦だったかが推察できる。

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