チーム・ロータスはコーリン・チャップマンにより設立され1958年からF1に参戦、60年のモナコGPで初優勝。
62年には「ロータス 25」を駆るジム・クラークが活躍を見せ、翌年は10戦中7勝という圧倒的な強さで初のチャンピオンに輝き同時にロータスとしても初のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。
64年はマシンの信頼性が低かったことによりチャンピオンは逃したが、65年はクラークが開幕戦南アフリカGPから第7戦ドイツGPまでの全てのレースで優勝し、3戦を残してチャンピオンが決定した。
しかし68年、コンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、クラークにはF2のレースでのアクシデントによりこの世を去るという悲劇が襲う。
70年「ロータス 72」を登場させ、70年のヨッヘン・リント、72年のエマーソン・フィッティパルディにチャンピオンをもたらした。
ただし「ロータス 72」のインボードブレーキのトラブルにより、リントが70年にアクシデントでこの世を去り、それに衝撃を受けたジョン・マイルズがチームを去るという代償もあった。
77年に登場した「ロータス 78」はグラウンド・エフェクトカーという新技術で活躍し、これを発展させた「ロータス 79」は圧倒的な強さでマリオ・アンドレッティにチャンピオンをもたらした。
しかし79年以降は勝てないシーズンが続き、82年のシーズン終了後にチャップマンがこの世を去ってしまう。
85年は前年トールマンで新人ながら速さを見せていたアイルトン・セナを獲得し、86年には四天王(ピケ・マンセル・プロスト・セナ)による激しいチャンピオン争いを繰り広げることになるが、チャンピオンには届かなかった。
87年にはホンダエンジンを搭載し、セナのチームメイトとして中嶋悟が加入した。
だが第5戦アメリカ東GPのセナの勝利が、ロータスにとっての最後の優勝となってしまう。
翌年はネルソン・ピケを迎えたが、良い成績は残せなかった。
マクラーレンと同じエンジンを搭載していたが、エンジントラブルも多く、2回の表彰台にとどまった。
89年はホンダエンジンを失い、ジャッドエンジンを搭載した。
成績は低迷し最終戦オーストラリアGPで中嶋が雨の中でファステストラップを記録するのみであった。
91年はドライバーが持ち込んだスポンサーと田宮模型やコマツなどのスポンサーのみでの参戦で、マシン開発には資金的に不十分であった。
92年にはジョニー・ハーバートを獲得し、カストロールがメインスポンサーとなり資金不足は解消するものの、マシン開発ができずに中団に埋もれるレースが続いたことにより「没落貴族」と批判された。
さらにこのシーズン終了後にドライバーのハッキネンがマクラーレンに移籍した。
その後再び資金難が続いて94年の大幅な車両レギュレーション改定の対応に追われるなど苦戦し、長い歴史を持つチームの活動はこの年限りで幕を下ろさざるを得なくなってしまった。
A Tribute to a team that just ran out of funds just 7 years after Ayrton Senna left the Team
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