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【F1動画】コンストラクター マクラーレンの歴史

マクラーレンは1966年、ブルース・マクラーレンにより設立され、フェラーリ、ウィリアムズと並んでF1を代表する名門チームのひとつだ。

かつては、ロン・デニスの完璧主義から「規律を重んじる」というチーム方針から「帝国」とも呼ばれていた。

2008年8月時点、マクラーレンの優勝回数、ドライバーズタイトル獲得回数はフェラーリに次ぐ歴代2位。コンストラクターズタイトル獲得回数ではフェラーリとウィリアムズに次ぐ歴代3位。

⇒【F1動画】コンストラクター マクラーレンの歴史

長らくメインスポンサーだったウエストにかわり、2007年からボーダフォンがメインスポンサーとなったことから、エントリー名はボーダフォン・マクラーレン・メルセデス(Vodafone McLaren Mercedes)となる。

【F1動画】コンストラクター ミナルディの歴史

ミナルディはプライベーターとしてF1に参戦し、毎年のようにチーム存続の危機が囁かれていた。スポンサーを持ち込むドライバーを採用することが多く、F1で表彰台に上ったことは無い。

有力ドライバーを迎えられない一方で、ミナルディは新人発掘には優れ、アレッサンドロ・ナニーニをはじめ、マーク・ウェバー、フェルナンド・アロンソ、ジャンカルロ・フィジケラ、ヤルノ・トゥルーリといったそうそうたるドライバーが、ミナルディからデビューしている。

⇒【F1動画】コンストラクター ミナルディの歴史

特に、アロンソは2005・2006年、ミナルディ出身者として2年連続のワールドチャンピオンを獲得。現代のF1では珍しい家庭的な雰囲気と、F1への情熱を感じさせるチームとして評価された。

ミナルディは日本人ドライバーとも縁があり、片山右京、中野信治らが最後に在籍したチームでもある。

【F1動画】コンストラクター ロータスの歴史

チーム・ロータスは、コーリン・チャップマンにより設立された。

1958年からF1に参戦し、1960年のモナコGPでは初優勝。1962年には「ロータス 25」を駆るジム・クラークが活躍を見せ、翌年は10戦中7勝という圧倒的な強さで初のチャンピオンに輝き、同時にロータスとしても初のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。

1964年は、マシンの信頼性が低かったことによりタイトルは逸したが、65年はクラークが開幕戦南アフリカGPから第7戦ドイツGPまでの全てのレースで勝利し、3戦を残して早くもチャンピオンを決めた。しかし、1968年。コンストラクターズチャンピオンを獲得したものの、クラークには、F2のレースでのアクシデントによりこの世を去るという悲劇が襲う。

そして、1970年、ロータスは「ロータス72」を登場させ、1970年のヨッヘン・リント、1972年のエマーソン・フィッティパルディにチャンピオンをもたらした。しかし、「ロータス72」のブレーキトラブルにより、リントが70年にアクシデントでこの世を去り、それに衝撃を受けたジョン・マイルズがチームを去るという代償もあった。

⇒【F1動画】コンストラクター ロータスの歴史

1977年に登場した「ロータス78」はグラウンド・エフェクトカーという新技術で活躍。これを発展させた「ロータス79」は圧倒的な強さでマリオ・アンドレッティにチャンピオンをもたらした。が、1979年以降は勝てないシーズンが続き、1982年のシーズン終了後にチャップマンがこの世を去ってしまう。



1985年はのロータスは、前年トールマンで新人ながら速さを見せていたアイルトン・セナを獲得し、1986年には時のF1四天王(ピケ・マンセル・プロスト・セナ)による激しいチャンピオン争いを繰り広げることになるが、ロータスはチャンピオンには届かなかった。

その後、ロータスは、1987年にはホンダエンジンを搭載、セナのチームメイトとして中嶋悟が加入する。だが、第5戦アメリカ東GPのセナの勝利が、ロータスにとっての最後の優勝となってしまう。翌1988年にネルソン・ピケを迎えたが、良い成績は残せなかった。



この年、ロータスは、マクラーレンと同じホンダエンジンを搭載していたが、エンジントラブルも多く、2回の表彰台にとどまった。

1989年のロータスは、ホンダエンジンを失い、ジャッドエンジンを得る。しかし、成績は低迷し、最終戦オーストラリアGPで「雨の中嶋」が、レイン・コンディションの中でファステストラップを記録するのみであった。

1991年は、ドライバーが持ち込んだスポンサーと田宮模型やコマツなどのスポンサーのみでの参戦で、マシン開発には資金的に不十分であった。翌1992年にはジョニー・ハーバートを獲得し、カストロールがメインスポンサーとなり資金不足は解消するものの、マシン開発ができずに中団に埋もれるレースが続いたことにより、「没落貴族」と揶揄された。さらにこのシーズン終了後、ドライバーのハッキネンがマクラーレンに移籍。

その後、再び資金難が続いたロータスは、1994年の大幅な車両レギュレーション改定の対応に追われるなど苦戦し、長い歴史を持つチームの活動はこの年限りで幕を下ろさざるを得なくなってしまった。

そして時は流れ、ロータスの夢の続きは2011年シーズンに引き継がれる。

【F1動画】コンストラクター ウイリアムズの歴史

F1コンストラクターのひとつ、ウイリアムズ。正式名称を、ウイリアムズ・グランプリ・エンジニアリングという。

ウイリアムズは1976年、フランク・ウイリアムズとパトリック・ヘッドによって設立された。4年後の1980年、初のコンストラクターズタイトルを獲得し、アラン・ジョーンズをチャンピオンへ導く。

1982年には、ターボ全盛期において非力なNAエンジンで戦いを挑み、マシンバランスが良くポイントを重ねたケケ・ロズベルグがわずか1勝のみでチャンピオンに輝いた。

⇒【F1動画】コンストラクター ウイリアムズの歴史1980 F1 season

⇒【F1動画】コンストラクター ウイリアムズの歴史The Williams F1 Collection



1985年からは、ウイリアムズは当時最強と言われていたホンダエンジンで1986年、1987年のコンストラクターズタイトルを獲得。しかし、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル二人の所属ドライバーの確執から、レースには強いもののチームにとっては冬の時代であった。

その後、1989年からルノーエンジンと契約を結び、エイドリアン・ニューウェイを迎え入れたウイリアムズは黄金期を迎える。1992年、アクティブサスペンションを搭載したウイリアムズFW14Bは年間10勝という記録を残し、翌年はその改良型としてFW15Cが投入されアラン・プロストをチャンピオンへと導いた。

1994年はアイルトン・セナを迎え、メインスポンサーをキャノンからロスマンズとし、カラーリングも一新される。しかし、第3戦サンマリノGPでセナはタンブレロ・コーナーでコンクリートウォールに激突し、帰らぬ人となってしまった。

これにより事実上チーム・ナンバーワンドライバーとなったデーモン・ヒルは1996年、圧倒的な強さでチャンピオンとなる。ヒルが離脱した1997年は、ジャック・ビルヌーブが激闘の末チームに2年連続チャンピオンをもたらした。

⇒【F1動画】コンストラクター ウイリアムズの歴史Damon Hill vs Jacques Villeneuve 1996

1998年と1999年のウイリアムズは、ウィンフィールドをスポンサーとし、赤いマシンカラーとなったが、コンペティティブなマシンとは言えず、優勝戦線からは遠ざかってしまう。2000年からはBMWエンジンを搭載、ファン・パプロ・モントーヤとラルフ・シューマッハがチャンピオン争いにも加わる走りを見せ、2006年からはニコ・ロズベルグと中嶋一貴をレギュラーに起用した。

ウイリアムズは、伝統的にチームオーダーを排する。チームメイト間に平等に戦わせるという方針を一貫してとっており、マクラーレンと同じようにいくつかのタイトルを落としてた。
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