レーシングギア/Racing Gear

Kimi Raikkonen 2007 World Champion
F1GP動画WEB

【F1動画】名ドライバー集4/ナイジェル・マンセル

ナイジェル・マンセル(イギリス)は、1980年にデビュー、84年までロータスで過ごした(自身初のポールポジションを奪った84年のアメリカGPでは、チェッカー目前で壁に接触しミッションを壊してしまい、自らマシンを押してチェッカーを目指している途中で力尽き気絶してコース上に倒れてしまったという逸話もある。)。

85年、ウィリアムズへ移籍しその年のヨーロッパGPでようやく初優勝を果たす(72戦目での初優勝は、当時の最遅記録)。
ホンダエンジンの全盛期となった86年は一気にチャンピオン争いに加わる事になったが、最終戦オーストラリアGPは左リアタイヤのバーストによりリタイア、王座はN.ピケとの争いのすきを突いたマクラーレンのA.プロストにさらわれた。
87年は6勝するもリタイアも多く、コンスタントに入賞していたピケにリードを許し、日本GPの予選1日目の大クラッシュにより背中を痛めたことでこのレースと最終戦を欠場に追い込まれ、2年連続で王座を逃す。

89年、フェラーリへ移籍し、90年にはプロストがチームメイトとなるが、母国イギリスGPでリタイア後、突然の引退を表明するが、その後これを撤回して古巣ウイリアムズ復帰を決意する。

91年、再びチャンピオンを逃し「無冠の帝王」と呼ばれたマンセルだったが翌年アクティブ=サスペンションなどを搭載したハイテクマシン「FW14B」で序盤から圧倒的な速さを見せ、遂に念願のワールドチャンピオンに輝いた(16戦中14回のポールポジション、9勝を記録した)。
しかしプロストのウィリアムズ入りや年俸ダウンかつジョイントナンバー1扱いという契約を嫌い、「私の力の及ばない理由により、今シーズン限りでのF1からの引退を決めた」と発言して翌年はアメリカのCARTチャンピオンになった。

94年、A.セナの死後、活気を失ったF1に呼び戻され、三度ウィリアムズをドライブすることとなる。
最終戦オーストラリアGPではポールポジションを獲得、決勝でも優勝した(F1での最後の勝利、31勝目)。

My tribute to British Formula 1 driver Nigel Mansell.
31 wins
32 pole positions
1 world championship
Teams: Lotus (1980-84), Williams (1985-88, 1991-92, 1994), Ferrari (1989-90), McLaren (1995).

Nigel Mansell Tribute

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【F1動画】名ドライバー集3/アラン・プロスト

アラン・プロスト(フランス)は、80年マクラーレンからデビュー。
81〜83年をルノーで過ごし、84年、マクラーレンに戻りN.ラウダと接戦を繰り広げるが、結局わずか0.5ポイント差でチャンピオンを奪われた。
85,86年とJ.ブラバム以来26年ぶりの2年連続チャンピオンとなる。
87年は苦戦を強いられ、3勝でランキングは4位。
だがポルトガルGPでのシーズン3勝目は、自身通算28勝目で、J.スチュワートの持つ最多勝記録を破るものだった。
88年、ホンダエンジンと共にマクラーレンに移籍してきたA.セナの前に王座を逃した。
しかしその頃セナとの人間関係が問題となりつつあった。
ポルトガルGPでの『幅寄せ事件』(セナがプロストに対し1周目最後のメインストレートで意図的にコンクリート壁へ危険な幅寄せを行った)から関係は悪化していた。
89年、セナとの確執はサンマリノGPでの『紳士協定事件』により完全に表面化するが、この年はポイントでセナに圧勝し、3度目の王座を手にする。
91年、フェラーリで1勝もできなかったプロストは翌年の休養を発表する。
復帰した93年は宿敵セナやD.ヒル・M.シューマッハが活躍したため、楽ではなかった。
そんな中、所属するウィリアムズに翌年セナが移籍することが確実になった事や、自らのモチベーションの低下から、ポルトガルGP開催中に引退を発表。
そのレースで2位に入り、4回目のチャンピオンの座を獲得した。
最終戦オーストラリアGPでは遂にセナと和解し、表彰台で握手をしてみせた。
長年の確執を知る関係者およびファンにとっては一つの時代の終幕を物語っていた。

プロストはチャンピオン争いをした年が8回もあり、その半分は失っているが、もしラウダとセナがいなければ、もう少し王座を獲っていたかもしれない。
プロストの特徴は、年間を通して無理をしない哲学を持っているということと、速いマシンに乗れるように自ら働きかけることである。
F1で成績を残すにはドライバーの腕だけでなく、良いチーム、良いマシンに乗れなければならない。
彼はそれをよく知っていたのだ。
3度で終わった者と、それを越えた者の違いはそこにあるのだ。

Tribute to French Formula 1 driver Alain Prost.
51 wins
33 pole positions
4 world championships
Teams: McLaren (1980, 1984-1989), Renault (1981-1983), Ferrari (1990-1991), Williams (1993).

Alain Prost Tribute

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【F1動画】名ドライバー集2/ジャッキー・スチュワート

ジャッキー・スチュワート(イギリス)は、65年にBRMでデビューし優勝、若くして天才ぶりを発揮し、69年,71と圧倒的な強さで王座に輝いた。
しかし、その翌年72年には、ストレスから胃潰瘍をわずらってしまい、欠場している。
スチュワートは肉体的にも精神的にも限界が来ていたのだ。
73年に3回目の王座に輝いたスチュワートだったが、彼には最後のレースとなるはずのアメリカGP予選でチームメートのF.セベールが事故死するという災難が待っていた。
残念なことに、100戦目となるはずのレースを前にして、自らレーシングスーツを脱いだ。

スチュワートの時代には事故が多く、現役時代から安全性について積極的に発言していた(フルフェイスヘルメットの普及を訴えるなど)。
かつてレース界では「レーサーは命をかけて走るのが使命で、安全について語るのは臆病者の証拠」といった意識も存在したが、彼はそのような考え方に立ち向かった新時代のドライバーであった。
「私は1滴の血も流さずレースを引退できることを誇りに思う」という言葉を残し引退したが、事実スチュワートは指のちょっとした骨折しかレースでケガをしていない(前述の胃潰瘍による欠場を除いて)。
後継者と言われていたセベールの事故死で現役生活に幕が降りてしまったことは、あまりにも皮肉な運命といえた。
引退後もその姿勢は変わらず、カーボンモノコックの普及で安全性が向上した反面、危険を犯すドライバーが増えるといったモラル低下を懸念していた。
89年・90年の日本GPでのセナ、プロスト接触についてセナとの対談で「歴代チャンピオン達と比べて、あなたは事故が多すぎるのではないか」と非難したことは有名である。

A tribute to a triple WC. One of F1's true legends and saved countless lives due to his advocacy for safer racing.

Jackie Stewart Tribute

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