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【F1動画】プロストのプロフェッサーたる所以

セナとプロストがMcLaren-Honda MP4/4で16戦15勝と、シーズンを席巻した1988年。

フランスグランプリでの二人の攻防は、まさに手に汗握るテールトゥーノーズ。

周回遅れのクルマが現れるのを待ってましたとばかりに、プロストの巧緻な脳細胞が冷静な指令を下す・・・。


⇒【F1動画】プロストのプロフェッサーたる所以
Senna vs Prost - 1988 French Grand Prix



ちなみに、この年のMcLaren-Honda MP4/4はホンダ1500ccターボが有終を飾った最後の年。

1500馬力を解き放ったセナとプロスト。
因縁の始まりの年でもあった。



【F1動画】エリオ・デ・アンジェリスの生涯

エリオ・デ・アンジェリスは1958年3月26日、イタリアの貴族の家庭に生まれる。
10代でカートを始め、1974年にイタリア・カートチャンピオン、1977年にはイタリアF3一年目でチャンピオンとなる。

1978年はイギリスF3に出場し、翌1979年、資金不足に苦しむシャドウからF1デビューを果たした。
ポイント獲得は1度にとどまったものの、非凡な速さを見せつけた。

1980年にはマリオ・アンドレッティのチームメイトとしてロータスのシートを得て、1982年、オーストリアで初優勝を飾った。
アンジェリスは低迷していたロータスを資金力で支え、チームメイトのナイジェル・マンセルに対してエースの地位を確立していった。

しかし1985年、マンセルに代わってアイルトン・セナがロータスに加入してきた。セナは、常にその時の状況に満足せず、各セッションが終わるごとにエンジニアと話し合いをした。一方でアンジェリスはアンジェリスは自分の才能と環境を受け入れ、それをよしとする古典的なスタンスであった。これまでの常識では、ドライバーはセッション後の作業はピットクルーに任せて休息するのが当り前だったのだが、セナがその常識をくつがえしたのだ。結果的に、瞬く間にアンジェリスはエースの座から引きずり下ろされてしまう。

それでもサンマリノでは優勝、予選でも何度かセナを上回ってみせた。しかしチームはもうアンジェリスを必要としなくなり、1985年いっぱいでロータスを去る。

⇒【F1動画】エリオ・デ・アンジェリスの生涯

1986年、ブラバムに移籍したアンジェリスは5月14日、フランスのポールリカールでのテスト中にトラブルによりクラッシュ。
サーキットはテスト中であったこともありマーシャルも少なく、彼は火の手の上がるマシンに取り残され、翌日、28歳の若さで息を引き取った。

1980年代のターボ化の流れとテクノロジーの進化は、ドライバーやF1チームの在り方も変えていった。
アンジェリスは、その変化に取り残されたのかもしれない。

走る時には誰よりも攻め、マシンを降りればすぐに貴族に戻る。
クラシカルなスタイルを貫いたローマの旧き良きレーサー、それがエリオ・デ・アンジェリスなのだろう。


1982年、ロータスは翌年にデビューさせるべく、コスワース・エンジンからルノーV6ターボエンジンを搭載したニューマシン・ロータス93Tの製作に着手。
テストドライブはエリオ・デ・アンジェリスが担当。

【F1動画】名ドライバー200戦練磨の鉄人 リカルド・パトレーゼ

イタリア人ドライバー、リカルド・パトレーゼは、1977年モナコGPでシャドウからデビューし、翌1978年にアロウズに移籍した。

スウェーデンGPでは早くも初表彰台を獲得したほか、いくつかのレースで入賞する。しかし、第14戦イタリアGP。ロニー・ピーターソンが犠牲となったスタート直後の多重クラッシュの原因とされてしまうが、後の裁判で、このクラッシュはレーシング・アクシデントとされ、名誉を回復する。

1982年、リカルド・パトレーゼはブラバムに移籍、第6戦モナコGPで初優勝を飾った。このパトレーゼの初勝利には逸話がある。ファイナルラップでトップが入れ替わり、パトレーゼ本人はチェッカーを受けた後、ピットに戻るまで優勝したことを知らなかったという。

ブラバムとアルファロメオで戦った1984年から1988年は、マシンの信頼性不足で優勝どころではなく、パトレーゼは入賞がやっとの状態であった。

⇒【F1動画】名ドライバー200戦練磨の鉄人 リカルド・パトレーゼ

そして、ウイリアムズに移籍した1989年。表彰台が6回、ランキングは3位。1990年サンマリノGPでようやく99戦ぶりの優勝を飾った。優勝と優勝の間が最も長い新記録でもある。1991年のシーズン前半は、チームメイトのナイジェル・マンセルを凌ぐ速さを見せ、メキシコGP・ポルトガルGPではポールトゥーウィンも達成した。

翌年1992年は、名車ウイリアムズFW14Bが圧倒的な速さを見せ、パトレーゼが所属するウイリアムズは年間10勝。ただし、パトレーゼが勝ったのは日本GPでの1勝だけで、シーズン6回を記録したウイリアムズFW14Bのワンツーフィニッシュのうち、すべてのにおいてパトレーゼは2位であった。



また、この年、パトレーゼはランキングで自身最高の2位であったが、マンセルにかなわないことが多く納得のいかないシーズンとなってしまった。そして、1993年には、年俸やチームのやり方への不満などからベネトンに移籍したが、ベネトンがミハエル・シューマッハ中心で動いており、パトレーゼ自身精彩を欠いたこともあり、1994年のシート失い、そのまま事実上引退した。

1989年以来、通算256戦の最多出走記録を持っていたパトレーゼだったが、この記録は2008年の第5戦トルコGPで、ルーベンス・バリチェロによって更新された。ある雑誌のインタビューでパトレーゼはこう語った。

記録を破られるのは悲しい。
しかし、記録は破られるためにあるようなものだよ。
19年間も記録を保持していたのだから、ボクはそれを誇りに思っている。
最多出走記録は破られたが、これからはその保持期間に挑戦してもらおうじゃないか。
その時、ルーベンスには心から「おめでとう」と言おう。

かつて、ニュースキャスター古舘伊知郎は、フジテレビのF1中継の中で、リカルド・パトレーゼを「200戦練磨の鉄人」と称えた。

【F1動画】名ドライバー CART王者ファン・パブロ・モントーヤ

ファン・パブロ・モントーヤは、コロンビア人ドライバー。CARTの1999年度シリーズチャンピオンでもあり、2001年、鳴り物入りで名門ウイリアムズからF1にデビューする。

⇒【F1動画】名ドライバー ファン・パブロ・モントーヤ

CART王者モントーヤは、デビューイヤーのイタリアGPでは早くも初優勝。2003年にはミハエル・シューマッハ、キミ・ライコネンなどとともに、チャンピオン争いにも加わるほど活躍した。



2005年、新天地マクラーレンへ移籍して3勝したものの、シーズン序盤、腕の骨折で2戦を欠場。翌2006年もマクラーレンの低迷とともに精彩を欠いたモントーヤは、シーズン中盤、突然マクラーレンを離脱。

2000年代前半に、シューマッハの最も注目に値するライバルだったファン・パブロ・モントーヤは、その後、アメリカのNASCARに活動の拠点を移している。アメリカン・モータースポーツのほうが、モントーヤにとっては性が合っていたのかもしれない。

【F1動画】名ドライバー 日本GP勝者ジェームス・ハント

イギリス人ドライバー、ジェームス・ハントは1973年、F1第6戦モナコGPでマーチからデビュー、1975年に初優勝するなどの活躍が認められ、1976年のマクラーレンのエースに抜擢された。

⇒【F1動画】名ドライバー 日本GP勝者ジェームス・ハント

1976年のジェームス・ハントは、トップチェッカーを受けたものの、2度失格で優勝を取り消されるという珍事。内1回は後に1位と再認定された。この年、フェラーリのニキ・ラウダがドイツGPのアクシデントで欠場する間にハントはポイントを重ね、なんと最終戦・日本GPで逆転して見事F1チャンピオンに輝く。



しかし、翌1977年、ハントは3勝したが、ライバルのラウダにタイトルを奪還されてしまった。その後、1978年・1979年の成績は低迷し、シーズン中に現役引退を表明することとなった。

引退の理由については「チャンピオンシップがマシンの性能に左右され、ドライバーの腕が反映されにくくなり興味を失った」と述べた。
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