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【F1動画】名ドライバー200戦練磨の鉄人 リカルド・パトレーゼ

イタリア人ドライバー、リカルド・パトレーゼは、1977年モナコGPでシャドウからデビューし、翌1978年にアロウズに移籍した。

スウェーデンGPでは早くも初表彰台を獲得したほか、いくつかのレースで入賞する。しかし、第14戦イタリアGP。ロニー・ピーターソンが犠牲となったスタート直後の多重クラッシュの原因とされてしまうが、後の裁判で、このクラッシュはレーシング・アクシデントとされ、名誉を回復する。

1982年、リカルド・パトレーゼはブラバムに移籍、第6戦モナコGPで初優勝を飾った。このパトレーゼの初勝利には逸話がある。ファイナルラップでトップが入れ替わり、パトレーゼ本人はチェッカーを受けた後、ピットに戻るまで優勝したことを知らなかったという。

ブラバムとアルファロメオで戦った1984年から1988年は、マシンの信頼性不足で優勝どころではなく、パトレーゼは入賞がやっとの状態であった。

⇒【F1動画】名ドライバー200戦練磨の鉄人 リカルド・パトレーゼ

そして、ウイリアムズに移籍した1989年。表彰台が6回、ランキングは3位。1990年サンマリノGPでようやく99戦ぶりの優勝を飾った。優勝と優勝の間が最も長い新記録でもある。1991年のシーズン前半は、チームメイトのナイジェル・マンセルを凌ぐ速さを見せ、メキシコGP・ポルトガルGPではポールトゥーウィンも達成した。

翌年1992年は、名車ウイリアムズFW14Bが圧倒的な速さを見せ、パトレーゼが所属するウイリアムズは年間10勝。ただし、パトレーゼが勝ったのは日本GPでの1勝だけで、シーズン6回を記録したウイリアムズFW14Bのワンツーフィニッシュのうち、すべてのにおいてパトレーゼは2位であった。



また、この年、パトレーゼはランキングで自身最高の2位であったが、マンセルにかなわないことが多く納得のいかないシーズンとなってしまった。そして、1993年には、年俸やチームのやり方への不満などからベネトンに移籍したが、ベネトンがミハエル・シューマッハ中心で動いており、パトレーゼ自身精彩を欠いたこともあり、1994年のシート失い、そのまま事実上引退した。

1989年以来、通算256戦の最多出走記録を持っていたパトレーゼだったが、この記録は2008年の第5戦トルコGPで、ルーベンス・バリチェロによって更新された。ある雑誌のインタビューでパトレーゼはこう語った。

記録を破られるのは悲しい。
しかし、記録は破られるためにあるようなものだよ。
19年間も記録を保持していたのだから、ボクはそれを誇りに思っている。
最多出走記録は破られたが、これからはその保持期間に挑戦してもらおうじゃないか。
その時、ルーベンスには心から「おめでとう」と言おう。

かつて、ニュースキャスター古舘伊知郎は、フジテレビのF1中継の中で、リカルド・パトレーゼを「200戦練磨の鉄人」と称えた。

【F1動画】名ドライバー CART王者ファン・パブロ・モントーヤ

ファン・パブロ・モントーヤは、コロンビア人ドライバー。CARTの1999年度シリーズチャンピオンでもあり、2001年、鳴り物入りで名門ウイリアムズからF1にデビューする。

⇒【F1動画】名ドライバー ファン・パブロ・モントーヤ

CART王者モントーヤは、デビューイヤーのイタリアGPでは早くも初優勝。2003年にはミハエル・シューマッハ、キミ・ライコネンなどとともに、チャンピオン争いにも加わるほど活躍した。



2005年、新天地マクラーレンへ移籍して3勝したものの、シーズン序盤、腕の骨折で2戦を欠場。翌2006年もマクラーレンの低迷とともに精彩を欠いたモントーヤは、シーズン中盤、突然マクラーレンを離脱。

2000年代前半に、シューマッハの最も注目に値するライバルだったファン・パブロ・モントーヤは、その後、アメリカのNASCARに活動の拠点を移している。アメリカン・モータースポーツのほうが、モントーヤにとっては性が合っていたのかもしれない。
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