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【F1動画】名ドライバー 日本GP勝者ジェームス・ハント

イギリス人ドライバー、ジェームス・ハントは1973年、F1第6戦モナコGPでマーチからデビュー、1975年に初優勝するなどの活躍が認められ、1976年のマクラーレンのエースに抜擢された。

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1976年のジェームス・ハントは、トップチェッカーを受けたものの、2度失格で優勝を取り消されるという珍事。内1回は後に1位と再認定された。この年、フェラーリのニキ・ラウダがドイツGPのアクシデントで欠場する間にハントはポイントを重ね、なんと最終戦・日本GPで逆転して見事F1チャンピオンに輝く。



しかし、翌1977年、ハントは3勝したが、ライバルのラウダにタイトルを奪還されてしまった。その後、1978年・1979年の成績は低迷し、シーズン中に現役引退を表明することとなった。

引退の理由については「チャンピオンシップがマシンの性能に左右され、ドライバーの腕が反映されにくくなり興味を失った」と述べた。

【F1動画】名ドライバー フェラーリを2度復活させた男ゲルハルト・ベルガー

オーストリア人ドライバー、ゲルハルト・ベルガーは1984年、地元オーストリアGPでATSからデビュー、翌年アロウズに移籍する。

1987年からはフェラーリへ移り、翌年の地元イタリアGPを制した。このレースは、マクラーレン・ホンダが16戦中15勝と圧倒的な強さの中唯一落としたレース。ベルガーは、誕生日に何が欲しいかというジャーナリストの質問に「ホンダエンジン」と答えた。

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1989年のベルガーは、サンマリノGPでクラッシュしマシンが炎上するなど15戦中12回はリタイヤであったが、完走した3戦はすべて表彰台にのぼり、ポルトガルGPでは優勝した。

1990年から1992年まではマクラーレンに在籍。計3勝を挙げ、1992年最終戦オーストラリアGPでの優勝は「第2期ホンダ最後のレースでの優勝」という感動的なものであった。



1993年、ベルガーは古巣フェラーリへ戻る。後、3年間のフェラーリ在籍の中で、1994年のイタリアGPでの優勝はファンにとって印象深いものとなった。この時ベルガーは、「フェラーリを2度復活させた男」と呼ばれた。また、ベネトンで戦った1996年・1997年は低迷し、シーズン終了間際に引退を発表した。

いたずら好きとしても知られるベルガーであったが、神経質と言われていたアイルトン・セナとの関係は良好で、数々の悪戯を仕掛けては許されている。近代F1の世界で、ゲルハルト・ベルガーはかつての大らかなレーサー気質を受け継いだ存在としてチームやメディア関係者に愛された。

【F1動画】名ドライバー 親子2代でワールドチャンピオン デイモン・ヒル

イギリスドライバー、デイモン・ヒルは、2度のワールドチャンピオンを獲得したグラハム・ヒルの息子。1991年に名門ウィリアムズにテストドライバーとして大抜擢され、1992年、ブラバムからF1にデビューした。

1993年、前年まで在籍していたナイジェル・マンセルと、リカルド・パトレーゼがウィリアムズを離脱したため、レギュラードライバーに昇格。アラン・プロストのチームメイトとしてF1サーカスに参戦し、初勝利となったハンガリーGPから3連勝を飾った。

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翌1994年、サンマリノGPでの同僚アイルトン・セナのアクシデントによりエースドライバーとなったヒルは、ミハエル・シューマッハの出場停止もあって6勝。最終戦直前ではシューマッハに1点差まで追いつくものの、最終戦でシューマッハと接触。この結果2人ともリタイアし、初のチャンピオンはシューマッハのものとなった。

1995年のデイモン・ヒルは、戦略に優れたベネトンのシューマッハに差をつけられ、再びチャンピオンを逃してしまうが、1996年、前年のインディ・チャンピオンで当時「驚異の新人」と言われたチームメイトのジャック・ヴィルヌーヴを振り切ってF1チャンピオンとなった。



アロウズに移籍した1997年は低迷したが、そこでもヒルは得意のマシン開発能力を発揮し、ハンガリーGPでは予選3位からトップを快走、終盤にギヤボックストラブルで失速し、ファイナルラップでヴィルヌーヴに抜かれ惜しくも優勝は逃したものの2位に入り、「このレースの真の勝者はデイモン」と言われた。

1998年にはジョーダンに移籍し前半戦は苦戦を強いられたものの、ベルギーGPでの雨の波乱含みのレースを制し、ジョーダンに初勝利をもたらした。この優勝は、ヒル自身にとって最後の優勝であり、ウィリアムズ以外のチームで挙げた唯一の勝利でもあった。

【F1動画】名ドライバー 最高のスウェーデン人ロニー・ピーターソン

スウェーデン人ドライバー、ロニー・ピーターソンは、大阪万博が催された1970年、マーチからデビューした。1971年には早くも5回ポディウムに登壇し高評価を得る。

1973年、ロータスに移籍したピーターソンは、ポールポジション9回・優勝4回と活躍を見せるが、安定性を欠いたドライブが災いし、結局F1選手権3位に終わった。1974年、1975年、1976年はマシンの戦闘力不足もあり成績は低迷する。

1977年、ティレルへ移籍したロニー・ピーターソンは、6輪車P34をドライブすることになったが、タイヤの開発問題から前年活躍を見せたマシンは戦闘力を失い、ベルギーGPでの3位以外は活躍できず、14位とさらに低迷することとなる。


翌1978年、ロニー・ピーターソンは古巣ロータスへ戻り、マリオ・アンドレッティとチャンピオン争いを繰り広げたが、第14戦イタリアGPのスタート直後に多重クラッシュが発生、ピーターソンはアクシデントに巻き込まれて両足にケガを負ってしまう。マシンから救出された時には意識はあったが、その夜容態が急変し翌日に息を引き取る。

⇒【F1動画】名ドライバー 最高のスウェーデン人ロニー・ピーターソン

ニキ・ラウダはピーターソンの死について、「ドイツGPだったらロニーは助かった」と発言。彼は2年前のドイツGPで大クラッシュをしたのだが、当時イタリアよりレベルが高いと考えられていたドイツの医療に助けられたからである。ロニー・ピーターソンの死はまさに治療のミスだったのである。
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