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【F1動画】名ドライバー フライング・スコット/カッ飛ぶスコットランド人 ジム・クラーク

イギリスはスコットランド出身の名ドライバー、ジム・クラークは、1960年に名門ロータスからデビューする。1963年には圧倒的な強さで初のチF1ャンピオンに輝き、ロータスを初のコンストラクターズチャンピオンに導いた。

1964年、1965年もジム・クラークの勢いは止まらず、1965年には3戦を残してチャンピオン獲得した。

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1968年、開幕戦の南アフリカGPで優勝し通算25勝。当時、歴代1位となり、その年のチャンピオン大本命だと思われていたクラークだが、第2戦スペインGPまでの間にホッケンハイムで行われたF2のレースで突然のコースアウトから木に激突してしまい、サーキットに戻ることは永遠にできなくなってしまった。



ジム・クラークは、マシンが不調でも問題なく乗りこなしてしまうため、チームクルーが「彼がマシンに乗るとセッティングが進まない」と発言するほどだった。クラークは同世代のトップドライバーの誰よりもタイヤの使い方が上手かったという。

ポールポジション通算33回という記録は、65回のアイルトン・セナに破られるまでは歴代1位。ポールポジション獲得率はセナを上回る。F1ドライバーを語る際、常にアイルトンと比較され、賞賛されるドライバーが、フライング・スコット、ジム・クラークだ。

【F1動画】中嶋一貴の動画が見た〜い!

中嶋一貴の動画が見た〜い!って方のために、中嶋一貴の動画探しのサイトを見つけました。

デビュー3戦を終えたところですので、まだまだ中嶋一貴選手の露出は少ないようですね。
でも、この方法ならウィリアムズ・トヨタ F1チームの中嶋一貴動画がざくざく見つけられるかもしれません。

中学・高校時代のカート動画も見てみたいですね。
あの頃の一貴のヘルメットも、中嶋悟さんと同じ、赤白でしたよ。

⇒中嶋一貴 動画の探し方 誰も知らなかった中嶋一貴の秘密
2008/3/29記

⇒【F1動画】中嶋一貴 ウィリアムズ・トヨタ F1/コースシミュレーション
⇒【F1動画】中嶋一貴 ウィリアムズ・トヨタF1インタビュー
⇒【F1動画】中嶋一貴ニュース映像inブラジル
⇒【F1動画】2007年一瞬の中嶋一貴/リオデジャネイロ
⇒【F1動画】中嶋一貴シルバーストーンF1テスト2007
⇒【F1動画】中嶋一貴F1テスト/ウィリアムズ

【F1動画】名ドライバー 記憶に残る男ジャン・アレジ

フランス人ドライバーのジャン・アレジは、1989年フランスGPでティレルよりF1にデビューした。翌1990年、開幕戦アメリカGP、モナコGPで2位になるなどパフォーマンスを見せつけ、1991年には念願のフェラーリ入りが実現した。

しかし、当時フェラーリは成績不振で、シーズン終盤にアラン・プロストがチームを離脱すると、アレジはエースとなるも、翌1992年はイヴァン・カペリとコンビを組むがフェラーリはさらに低迷した。

1993年からは、ゲルハルト・ベルガーが加わり、フェラーリの再建に尽くした。そして、1996年、ジャン・アレジはベルガーとともにベネトンへ移籍、1997年までコンビを組むこととなる。5年間一緒のコンビはF1史上最長。



1995年、ジャン・アレジは、憧れのジル・ヴィルヌーヴの名がつけられたサーキットで開催されたカナダGPでようやく初優勝を果たした。その時、ジルと同じカーナンバー27のフェラーリでの勝利であったため、アレジの喜びもひとしおだった。

ベネトンでは、コンスタントに成績を残し、フェラーリ時代を上回る活躍を見せたが2年で離脱。その後アレジは中堅チームを転々とし、2001年いっぱいでの引退を表明した。

さて、F1デビュー以前のアレジは、エリック・ベルナール、エリック・コマスらとともにフランスの若手ドライバー有望株とされた。当時は、荒削りなドライビングのアレジよりコマスの評価が高かったが、F1で成功したのはアレジのみ。

⇒【F1動画】名ドライバー 記憶に残る男ジャン・アレジ

卓越したテクニックを持っており、雨のレースに強く、そのアグレッシブな走りでフェラーリ伝説のドライバー「ジル・ヴィルヌーヴの再来」と呼ばれ、特にティフォシからの人気は高かった。

しかし、ハイテクデバイスが多用され、「純粋なファイター」というだけではF1での結果を得られなくなった時代にデビューしたアレジを「10年遅く生まれてきたドライバー」と評価する者もいた。ただ、その熱きドライビングスタイルに魅了されたファンは多く、「記録よりも記憶に残る」ドライバーの一人として挙げられる。

【F1動画】名ドライバー 走りのアーティスト ネルソン・ピケ

ブラジル人天才ドライバーのひとりがネルソン・ピケ。

ネルソン・ピケは、1978年ドイツGPでエンサインからデビューし、翌1979年よりニキ・ラウダのセカンドドライバーとして戦う。1981年、1983年はブラバムで混戦を2度制し、1987年にはウィリアムズでナイジェル・マンセルとの確執の末3度目の王座についた。


1988年、ネルソン・ピケはロータスへ移籍したが、戦闘力の低いマシンであったため、結局2年間で1勝もできないばかりか、予選落ちさえ喫してしまう。そして、1990年、1991年はベネトンで3勝を挙げるものの、チームに不信感を抱き、他チームとの契約には至らず、F1を去った。

⇒【F1動画】名ドライバー 走りのアーティスト ネルソン・ピケ

ネルソン・ピケは、同じく3度のチャンピオンであり同郷でもあるアイルトン・セナとは犬猿の仲であった。
しかし、1990年日本GP前のドライバーズミーティングでは、前年失格の原因とされたシケインのショートカットについて審議された際、ピケは「コースに戻ると後ろからくるマシンと正面衝突しかねず、危険極まりない。シケインをショートカットし、マーシャルが安全を確認した上でコースに復帰するのが良い。」と、セナのとった判断が間違いではなかったことを主張した。

【F1動画】名ドライバー 大英帝国の愛すべき息子 ナイジェル・マンセル

1980年にデビューしたイギリス人F1ドライバーナイジェル・マンセルは、1984年までの5シーズンをロータスで過ごした。
マンセル自身初のポールポジションとなった1984年のアメリカGPでは、チェッカー目前のクラッシュでミッションを壊してしまい、自らマシンを押しているうちにチカラ尽きて気絶したというウソのような逸話をもつ。

1985年、ウィリアムズへ移籍したマンセルは、その年のヨーロッパGPで初優勝を果たす。72戦目での初優勝は、当時の最遅記録であった。ホンダエンジンの全盛期となった1986年は、一気にチャンピオン争いに加わることとなったが、最終戦オーストラリアGPは左リアタイヤのバーストによりリタイア、王座はネルソン・ピケとの争いのすきを突いたマクラーレンのアラン・プロストにさらわれた。

1987年、ナイジェル・マンセルは6勝。しかし、リタイアも多く、コンスタントに入賞していたピケにリードを許す。また、日本GPの予選1日目の大クラッシュにより背中を痛め、残りのグランプリレースを欠場、2年連続で王座を逃した。

⇒【F1動画】名ドライバー 大英帝国の愛すべき息子 ナイジェル・マンセル

1989年、フェラーリへ移籍。1990年には母国イギリスGPでリタイア後、引退を表明するが、その後これを撤回して古巣ウイリアムズでのF1復帰を決意する。

1991年、再びチャンピオンを逃し「無冠の帝王」と呼ばれたマンセルだったが、翌1992年、アクティブサスペンションなどを搭載したハイテクマシン「FW14B」で序盤から圧倒的な速さを見せ、遂にマンセルは念願のF1ワールドチャンピオンに輝いた。なんと、16戦中14回のポールポジション、優勝9回と、圧倒的な記録を残す。


しかし、プロストのウィリアムズ入り、年俸ダウン、その他契約上の不利益変更を嫌い、「私の力の及ばない理由により、今シーズン限りでのF1からの引退を決めた」と発言してF1を去るも、翌1993年にはアメリカのCARTチャンピオンになった。

1994年、アイルトン・セナの死後、活気を失ったF1に呼び戻され、三度ウィリアムズをドライブすることとなる。最終戦オーストラリアGPではポールポジションを獲得、そして31勝目。大英帝国の愛すべき息子ナイジェル・マンセルのF1での最後の勝利だった。
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